2008年4月10日 (木)

鬼太鼓座

Hi3900052_2  過日、鬼太鼓座の演奏を聞く機会があって、祝い太鼓をメインに日本文化の現在進行形の一端を堪能させて貰った。
 鬼太鼓座の名前自体は有名なので、その存在も映像や音もある程度は知っていたが、ライブで観賞するのは今回が初めての経験。
 ステージは、大きな櫓のトップに大太鼓、中段に大中様々な太鼓が仕掛けてあって、暗い会場にスポットライトの多用、高さとボリュームのある上手いショーアップだなぁと思わせるのだがよく考えると、この形式、「盆踊り」の櫓そのものである。
 賢いと言うか、人の考えること感じることは昔から同じなのだろう。
 時代の推移で違って来るのは「出来ること」が増えたり、アレンジの幅が広がるということだろうが、現代はその自由度の広さ故に、価値観を含めて色々なものが混濁していくマイナス面も出て来ることだろう。
 鬼太鼓座にしても、その活動が評価されたのは日本の古い芸能が持つピュアさ故なのだろうが、それが世界に通用するためには多種多様な価値観や他の文化も取り入れる必要があったろうから、矛盾を含みつつの「現在進行形」なのかも知れない。
 演奏自体は、会場が広かった為に、太鼓の音はマイクで拾われ大味に増幅されているし、先にも書いたがメディアに何度も取り上げられている鬼太鼓座だけに既知感も強く、新鮮なショックを味わうというワケにはいかなかった。
 やはり太鼓はその間近で叩く者の身体の躍動や体温や汗を感じ、太鼓の皮が響かせる空気の振動を感じてナンボのものかも知れない。
(もちろんそんな座席に座れていればこんな感想は書かなくてすむのだが)
 ただ吃驚したのは、バチの先端がばら鞭のような形状になったもので太鼓の面に打ち下ろすような演奏があって、これがジャズ(ブラシ)ドラムのようであったことだ。
  これには会場全体からホゥという驚きの混じった反応があった。
リズムへの親近感という点ではジャズドラムも和太鼓も今の日本人には大差がないというか、和洋ポップスに慣れ親しんだ世代が多くなった今では和太鼓のリズムの方が異端であり、それ故の驚きであったかも知れない。

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 写真は蕗の薹、食材として見かけるものは、この蕾の状態のもの。
  古民家の裏で妻がしつらえている庭に二つほど緑鮮やかにその顔を覗かせている。
 この庭には先代の持ち主が色々な植物をランダムに植えられていたようで、毎日、新しい発見があって面白い。
 くわえて庭自体が放置されていた期間が数年あったわけで、それを考えると改めて自生植物の強さを感じさせてくれる春先の芽吹きでもある。
 地上では季節の移り変わりでその姿を変えても地下では根を張り命を蓄えやがてくる春には芽吹く、、そんな文化や表現が本物なのかも知れない。

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2007年4月10日 (火)

「手で作る」事の素晴らしさと、その「限界」を知ること

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 湖東にある古民家に訪れるときは何故か天候が優れない。
 今日は蓮を植え込んだ防火用水井戸にメダカとタニシを入れた。冷え込みの厳しい小雨模様の日だ。
 この前、井戸に蓮を入れた日にはTシャツ一枚で過ごせたというのに、この落差、春先特有の「三寒四温」で言い表して良いモノかどうか。
 まあこれで例年より早く咲いた桜も長持ちするから不吉なことばかりではないが。
 さて市販されている代表的なメダカにはヒメメダカと黒メダカの2種があるようで、「絶滅寸前の自然メダカ」は黒メダカらしい、これは一匹50円。
 一方、改良種というか観賞用のヒメメダカは一匹10円と安い。
 「どちらが丈夫なんでしょうかね」と聞くと絶滅を前にした黒メダカなのだという。ちょっと矛盾しているように思えるけれどヒメメダカを自然の池に放つ人はいないわけだから納得。
 続いてタニシ、田圃で取れるような気もしたが、ついでと言うことで五匹ばかり購入。こつらは一個100円。
 ボウフラや藻の繁殖防止の為のメダカやタニシなのだか、こうして大きな井戸に入れるとその動作を見ているだけで結構楽しい。(勿論、タニシはそう簡単には動かないが)。

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 来週中には信州松本まで出向いて購入した松本民芸家具が、この古民家に到着する。松本市の中央ショールームで見た松本民芸家具は美しかった。
 飛騨家具もそうだが一般に販売されている家具とはこれらの家具は別のオーラを持っているようだ。
 硬い材質の木材の質感や丁寧な塗装、ヨーロッパ家具のデザインをきちんと日本文化に取り込みなおした意匠、それらが実に上手く混じり合って独自なオーラを放っているのだ。
 そんな新品の松本家具の端正な美しさもいいが、年季の入ったその姿も、宿泊先である旅館「まるも」さんで充分堪能させてもらった。
 松本民芸家具の創始者である池田三四郎氏が設計したまるも旅館は、由緒ある旅館だ。
 この小規模で(失礼)休祭日やハイシーズンは予約で満杯だそうで、それでも平日ならガラ空きだろうと侮ったezou、私達と同泊された沢山のガイジンさんたちの実績に頭を下げなければならない。
 ただし歴史を感じ取れる調度品があるのは宿泊部屋ではなくて付属の「喫茶まるも」だったりダイニングルームだったりするのだが。
 余談だが片泊まり専門のまるもさんで食べる朝食はダイニングルームの落ち着いた雰囲気と相まってとても美味しい。
 金額的に見ても「量と質」が根本的に違うものの、ホテルのモーニング1000円と比べてもひけを取らないと思う。
 美味しい焼き魚に味噌汁に厚焼き卵、そういう「日本の朝食」を知らない人、かって体験したけれど今はそれを失って久しい人には、是非体験して欲しい「味」だ。

 「手で作る」事の素晴らしさと、その「限界」を知ること。ezouはグルマンではないが最後に北大路魯山人の言葉を借りておこう。

P1030822同じ費用と手間で
人より美味しいものが
食べられ 物を生かす
殺すの道理が分かり
材料の精通から
偏食を免がれ
観賞も深まり
ものの風情に
関心が高まり
興味ある料理に
生き甲斐ある
人生が解る

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2006年10月 8日 (日)

日本手拭い・風呂敷

Suika01  「京都」は不思議な町だ。よく地方の観光都市に訪れると「○○の小京都」とか言うネーミングがあるのだが、まさに歴史・伝統・文化の三拍子が揃った巨大な都市と言えば、京都に肩を並べられる街は他にないだろう。
 そして浪花落語に登場する「京のぶぶ茶漬け」に現れるような、人々の底意地の悪さや見栄っ張り、いやもとい、誇り高さも他の土地にはないものだ。
 アンケート結果によると京都一の観光スポットは清水寺なのだそうだ。
 他の土地から観光に訪れたのなら、確かに清水寺は京都の顔になれる名所ではあるが、京都を京都ならしめているのは、実はこの街のそこかしこに散見できる京文化の名残や継承地点でではないだろうか。
 例えば町屋手拭の永楽屋細辻伊兵衛商店さん等の存在がそれに当たるだろう。
 聞き慣れぬ「町屋手拭」の説明から入るのが文章構成の常道だろうが、今では「手ぬぐい」から説明する必要があるかも知れない。
 現代は生活様式の変化に伴って「手ぬぐい」より、ハンドタオル・フェィスタオル・バスタオルの時代だから手拭いと言ってもそのイメージはぼやけているに違いない。
 それに「手ぬぐい」に付随するイメージである「銭湯」の数もぐんと少なくなっている。いなせな兄貴が固く絞った手拭を素肌にパシーンと叩き付ける図を思い浮かべられる人口は少なくなったに違いない。
 機能性を考えれば「町屋手拭」なんて下の下である。肌にパシーンと叩き付けられるのはそれだけ手拭いの生地が薄くて固いからで、いくらその上に粋な図柄が染め抜いてあっても無地のタオルの機能性にはかなわないだろう。
 それは昔の生活様式にいくら郷愁を感じようと「利便性」を考えれば、どれをとっても現在のそれの方が全て上回っているのと同じ事だ。
 しかしそういう状況を度外視してでも、人が過去のモノに強く惹きつけられるという事実が大切なのである。
 京都寺町の新風館近くにある手拭専門店永楽屋細辻伊兵衛商店では、明治から昭和初期に実際に販売されていた手拭の復刻版を沢山見ることが出来る。
 絵柄は舞妓さんのスキー姿などで、当時の最先端であり、今ではレトロモダンを感じさせてくれるものが多い。
 当時、最高度の染め技術と伝統的な絵柄とモダニズムの合体は、確かに今見てもデザイン的にとてもスリリングだ。
 思うに、レトロモダンの中には「失敗しなかった未来」が多く詰まっているのではないかと思う。
 「失敗しなかった未来」が、懐かしさを感じさせる光景を喚起させるモノや形と繋がった時に、一つの懐古趣味という「時代フェチ」を生むのだろう。
 問題は、現代の文化が生み出しているモノたちが、後、数十年後に「愛すべきもの」として再び私たちの目に映るのだろうかという事である。

 京都には手拭い以外に、家紋入りの風呂敷を、一点一点注文で作っている染物店がある。
 「印染め(しるしぞめ)」職人さんが、その風呂敷を作っているわけだが「印」とは、家紋のことをさす。この風呂敷は結納などに用いられる格式の高いものでなんと絹で出来ているのである。
 注目なのは、この家紋が風呂敷に対してナナメに入っていることだ。これは、贈り物を届ける時の「平包み(つまり結び目を作らない礼儀を重んじる包み方)」を使うと、ナナメに入っていた家紋が、贈る相手に対して正面を向くのである。
ナナメではなく、タテに家紋が入っている風呂敷もあって、これなどは祭の際に出す料理の重箱に掛けて使われるそうだ。
縦に入った家紋が風呂敷を包み垂らした時に正面なるように見えるので、どの家からの差し入れなのかが一目でわかるという塩梅になる。風呂敷は、包む時の形や目的を考えて作り分けられてきたという事だ。
 そして風呂敷は家紋に限らず、ものを包んだとき、意外な配色の効果を生み出す事も計算に入れられている。
例えば、重いものをしっかりと包みたいときに使う「四つ包み」。コレなどは、四つの角を、それぞれ染め分けたデザインの風呂敷を使うと4色の角が結び目に集まって、華やかな雰囲気を生み出し効果満点である。この発想は袋・バッグを作り出してきた文化からは生まれない。日本独自の意匠と言える。

 そう「デザイン」なのである。時を超えてもなお人を惹き付けるモノには、必ず、人の意を表す仕掛けが瑞々しく仕組まれているのである。
 

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2006年9月24日 (日)

トイカメラ

Img10091412210  本気でトイカメラを買いかけた頃がある。デジタルカメラで写真の面白さに目覚め、次に、気になりなり始めたのは独自のアナログ世界を展開出来るポラロイドとトイカメラだったからだ。
 ソ連製のロモの価格が、機種や性能によって変わるが4000円から3万円程度。中国製の「ホルガ」は4000円~2万円程度。いずれも簡単に手に入れられる価格帯だ。
 けれど購入を見合わせた。
 デジタルカメラの安易さに慣れた身体にはトイとはいえどフィルムカメラは胃にもたれるのだ。
 

 「写真・カメラ」は、昔から結構好きだった。そんな自分が写真の世界の深みにはまらなかったのは、現像の手間や各種機材の高額さのせいで、実際、その辺りをクリアしたデジタルカメラが登場してからは、何台もカメラを購入したり写真を写したりしている。
 この慧倉に貼っている画像は総てそうだ。

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 ただしデジカメが、高級一眼レフの世界に再突入し始めた最近は新製品の購入を控えている。
 勿論、購入価格が高いということもあるのだけれど、せっかく「撮る」という行為が重厚さを脱ぎ捨てて、だれでもいつでも、本当の意味で「簡単に撮れる」ようになった写真の世界を、いわゆる「プロ仕様」という言葉で、もとの窮屈な世界に押し戻そうとする流れがいやなのだ。
 使いこなす為に高度な知識と技術を必須とする機械や、それがなければ撮れない芸術表現、それらは旧世紀のものとしたい、、芸術と技術との関係の論議はあろうが「技術革新」とは本来それを目指したものだ、なぜその世界にもう一度戻ろうとするのだろうか。
 人はワードプロフェッサーとネットのお陰で、モンブランと原稿用紙から解放され、「文章」を書けるチャンスをどれほ多く得た事だろう。そしてこの変化は後戻りする事はないというのに、カメラの世界は何故逆行するのだろう。
 笑い話ではないがその内「フイルム撮影が出来るデジタルカメラ」が登場するのではないだろうか。
 勿論、高級一眼レフデジタルカメラの登場は、販売拡大の為の戦略だろうが、それに乗るターゲットがなければ企業は動かない筈だ。

 ・・とまあ粘着質気味な文章を書いてしまったが、実は、一眼レフを初めとしたフィルムカメラ自体の機械としてのフォルムは大好きで、巷の中古カメラには随分、惹かれる部分がある。
 「写真を撮られると魂が抜き取られる」と言われた時代からカメラの構造自体はさほど変わっていない。
 更に言えば、レンズとフィルムの関係は、人体の眼球と脳髄の関係に置き換えられるわけだから、カメラというものは機械でありながら非常に人間くさい存在であるような気もする。
 電子チップが搭載されていない中古カメラならその人間くささは尚更倍増するのだ。このフィーリングをフィルムの仕上がりに感じさせてくれるのが冒頭のトイカメラということになる。「慧蔵」の指向はその辺りにある。
 ・・・とは言っても映像面に限っては、私はこれからもデジカメ一本槍なのだろうが。
 慧倉では基本的に440×440ピクセルの正方形で切り取ったデジタル画像を掲載して行くつもりである。

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2006年9月18日 (月)

鳥かご時計

715256931 パソコンのプリンターが故障したのでヨドバシ梅田へ。ついでと言うのか、どちらかと言えばこちらがメインなのだが、阪急百貨店が創業77周年記念と銘打って企画した「素晴らしき時代マーケット」を訪れた。早い話が骨董市である。
 ただしこの骨董市「テレビでもおなじみ、岩崎紘昌さんのミニ講演会」があったりして結構力を入れているらしいのだけれど、残念ながら私は岩崎紘昌さん自体を知らない。もっと言えば、私の骨董に対する理解はその程度である。
  その程度の私がこの骨董市で(正確に表現すれば妻が)購入した骨董は「鳥かご時計」である。
   先に高さ十五センチほどの可愛らしい「鳥かご時計」を見つけたのは妻で、彼女が私に購入をどうしようと持ちかけてくれた時には、既に三点ほど候補が挙がっていた。
 うち一つは、鳥かご部分がガラスで出来ており素人目にも珍しいものであるのが判ったが、風情としては真鍮製の籠が肝になっていると判断して、ガラス製を除いて、更に中に入っている「鳥」の色が一番くすんで落ち着いたものを選んだ。
 というのはこの「鳥かご時計」自体が大正時代の製品のレプリカなので、鮮やかな「色」はいかにも本当の制作時代を感じさせるからである。
   ちなみに「ホンモノ」のアンティークは一万円などの価格帯ではなく十万ほどするそうだ。
 この価格帯については帰宅してからネットでもう一度確認してみたのだが、相場は一万円の幅、、と言うことはヤフーオークションやネット販売上の「鳥かご時計」はその殆どがレプリカということなのだろうか?
   それにネット上では「中国産」が圧倒的に多いのだが、この辺りの流れはどうなっているのか不思議な気がした。

   国産の「鳥かご時計」は、「東洋時計」のものが有名らしく「MADE IN OCCUPIED JAPAN」即ち占領下の日本製の刻印があり戦後のものが多いらしい。同社では、昭和20年8月の終戦と共に兵器生産がなくなり民需生産への切り替えが急務となり、兵器生産用の残った材料を活用してなべや釜などを生産。さらに本業の置き時計のも戦前に存在したモデルをベースに生産を再スタートしたのだとか。
  この製品が海外に輸出され、今、アンティークとして逆輸入されているケースがあるそうだ。

 しかしネットで色々と調べ物をしていたら、国産や舶来のアンティーククロックにはレプリカ、つまりリプロ(複製品)がたくさん出回っている事が判った。今回購入した「鳥かご時計」には初めから「レプリカ」ですと明示されていたから問題はないようなものの、中には、かなりの「モドキ」製品が出回っているのではないかと他人事ながら心配になった。
   ただ個人的には「動かない時計」は、いくら骨董であっても特別な歴史的な意義がないかぎり興味が持てないので、レプリカが悪いとは思っていない。
 ところでリプロ(複製品)にも色々な種類があるようで

1:完全複製品
  昔実際に存在した時計の外観をほぼ忠実に複製したもの。すべての部品を複製して組みたててある。ただし、基本スタンスが見た目の複製なので機械まで忠実に複製されているわけではない。
2:部分複製品
  ガラスやアンチモニー枠だけ昔のオリジナル品を利用して、中身の機械や文字板、裏蓋などが複製品となっているもの。壊れたオリジナル時計を修理すると手間や費用がかかるので、安易に中身を交換して「動きます!」と販売。
3:ジャンクもどき
  複製品を分解して古い時計のジャンク部品のように見せかけてネットオークションに出品するもの。複製品のジャンク品は部品としての価値も無い。

 どうやら今回、購入した「鳥かご時計」は1:に該当するようである。

Dvc00066

 ただし自分自身の価値観の中では、それが明示されている限り、2:までは、広範囲な「アンティーク」として多くの人々に許容されても良いのではないかと思っている。
  古くてホンモノであれば、そこに必ず「価値」が発生したり付随するとする感性は、どこか権威主義に犯されているようで私にはあまり馴染めない。
  現在最先端の製品もいずれは骨董になるのだろうが、今、魅力的でないものが、遙かな未来において、「モノ」としての輝きを維持できているとはとても思えないのである。

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2006年9月 9日 (土)

和竿

 最近NHKに凝っている。前にも書いたけれど「美の壷」から始まって、総合テレビジョンの「英語でしゃべらナイト」等も結構面白い。
 英語を使う(喋る)という行為から日本文化や海外文化の相違などに触れてみたり、「コミュニケーションと文化」を探るという視点を失わないから、毎回スタジオにゲストを招いて海外での体験など英語にまつわるエピソードトークも結構深いものがある。
 昨夜のゲストはバイリンガルアイドルの草分け早見優さんだったが、中に「桜」についての会話があって少し考えさせられた。

HY: 私がハワイから来たときに、桜が散る時期になると日本人の方が情緒があると     か、風情があるとか、私にはわからなかったけど感動していたんですよ!私は桜の花が散ってるだけじゃん!って思うんですよ。
今は、日本に住んで25年くらい経つので、切ない気持ちになるとか、言葉に表現できないんだけれど、感じるようになったとき、「私は日本人になったんだ!」という気がしましたね。
PH: 切ないとか懐かしいとか、そういう言葉を理解するにはその文化に浸ってないと…。
HY: そう!
PH: 無理かもしれないですね。
HY: ほんとに英語を勉強しようと思う方は、勉強することによって自分の文化を振り返ることができるから、外国語を勉強することは良いことだと思うんですよ。
MK: 桜の散る様子を感じるようになるには、やっぱり住むとか感じないとだめなんですか?
HY: そうですね。日本の文化は特にそうだと思います。アメリカはいろんな国の人が集まっているところだから。コミュニケーション、言葉の大切さってあると思うんですけど、日本人って言わないことで感じ取る。
「空気を読む」なんて英語では無いですね。「空気読めないな。」とか、最初に聞いたとき、面白い表現って思いましたね。
SY: 日本語で改めて考えると、空気をどうやって読むか分かりませんね。
HY: 日本語は、ほんとに美しい表現が一杯ある言葉ですよね。

 桜の散り際の美しさを感じ取る能力は「感受性」として、あらかじめ人間に備わっているのではなくて「その国の文化に浸っていないと」発動しないという体験談は面白い。
 辿っていけばイスラエル・パレスチナ問題まで行き着きそうな内容だと思うのだけれど、ここでは身近なところで話をシフトチェンジ。

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神戸・花鳥園

 同週の「美の壷」が取り扱ったテーマは「和竿」。
「和竿」は釣りに興味のない私ezouにはピンと来る「美の対象」ではなく、和竿自体を周囲に見かけない状態なので、なおさらどうかなと視聴し始めたのだが、やっぱりぐっと来ますね「和竿の美」。
 まあ番組としての演出力が高いのだろうけれど、前出の「その国の文化に浸っている」状況は、素人にも少しの手ほどきで、その「美」を発見させてくれるようだ。
 和竿は竹に漆を塗って作られた日本の伝統的な竿。
 昔、近所の叔父ちゃんが普通に持っていたような記憶もあるけれど、大人になって、こうやって改めて「和竿」に出会うと、「和竿」が釣り道具にとどまらず職人が技巧をつくして作った工芸品である事がよく判る。
 和竿の中で最も歴史の古いものが「京竿(きょうざお)」で、これは江戸時代初期に生まれたと紹介されていたが、横笛の装飾に見られるような腰帯みたいなものが施されていて、その雅を竿の手入れをしながら楽しんでみたいと思わせる。
 で、片一方では「仕上がって見たときの美しさと品格。ただごてごて色塗った見た目のきれいさでなく、落ち着いた中に品格があってその上で竿本来の調子とか力とかバランスとか加味されているとピカ1.そういうのねらってます。」とか仰る竿師の方が作られた渋いタナゴ竿のような「美」もあって、和竿と言うか日本の「技と美」は本当に侮れないなと実感した次第。

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2006年8月31日 (木)

古代裂

Tin5_1 京都に骨董を見に行く。妻は最近「古裂」にこり始め、私はデミタスカップに豆伊万里が似合うのではないかと思いつき両者の意見が一致したところでの訪問である。
 在阪の身ゆえに、幾度となく京都には訪れているが、その殆どは旅行ガイドブックに名所、あるいは穴場・ニュースポットとして紹介されている場所ばかりで、今回のような骨董を中心としたものは初めてである。
 京阪三条の駅を降りてすぐの縄手通に骨董店が密集しているのを知ったのも今回が初めて、それに縄手通の入り口にある地元の蒲鉾屋さんの品揃えに気がいったり、各店舗の敷居の高さに怖じ気づくような状態だから、夫婦二人して「骨董マニア」というスタンスではない。
 だからこのエントリーでも「京都骨董店案内」のようなスタンスでは文章が書けない。あくまで日常的な生活の「潤い」の一つとして、日本文化を味わっていく個人的な道筋のご紹介である。
 さて一軒目に訪れたのは明治35年創業「きれ」の骨董品屋、「ちんぎれや(珍裂屋)」さん。
 古布に財布・袋物がいかにも京都の地の商店といった風情のこじんまりした店舗にきちんと「収納」されている。
 「山積み」とも「満載」とも書かずに「収納と書いたのは、実際「ちんぎれや」さんに来て戴ければ、この表現が適切なものだと判ってもらえると思うのだが、、。
 古裂を再利用した数十のがまぐちが、実に整然と骨董和箪笥の引き出しに収納してある様は、一枚のデザイン写真を見るようである。
 又、古裂そのものも展示販売されているのだがその見せ方が巧い。横長の棚の中に綺麗に折り畳まれた古裂が何十と積んであるのだが、これもその様子自体が美しいのである。
 もっともドレスのような洋装生地では、折り畳んだ状態で全体の姿を想像させる事は元から無理なのだから、これは「身体に巻く」構造を持つ和着物や日本の布文化の特質のお陰なのかも知れない。

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「さんまち」にて

 ここで「古代裂(こだいぎれ)」とはどういったものなのかの蘊蓄。
勿論、「骨董」などのキーワードで当ブログに辿り着かれたような方には釈迦に説法なのだけれど。
 裂(きれ)は、時代別に大きく三つに分類されるそうだ。江戸期までの古い裂地は、「上代(じょうだい)裂」と呼ばれる正倉院裂を中心とした飛鳥、天平時代の裂地。
「名物(めいぶつ)裂」と呼ばれる、主に宋・元・明といった中国から渡来した絹織物が多い鎌倉、室町時代の裂地。
 比較的新しい江戸期頃までの裂地は「時代(じだい)裂」と呼ばれるらしい。
 これらをすべて包括した総称が「古代裂」ということ。
 一般的には、時代の下限を100年程度経っているもの、つまり明治期の中頃までのものを含めて「古代裂」と言うようだ。
 京都には古くから裂地商といわれる店が有ったそうだ。そこでは掛軸の表装用、お茶・諸道具のお仕覆・帯・小物など、さまざまな用途に用いられる大小の裂地を売買していたという。
 昔の人々も、現代の我々と同じように、今までの出来合いの物にはあきたらず「ここにはない何か」を強く求めていたわけだ。
 ある者は帯をつぶして刀袋や扇袋に、またある者は着物や打掛けを屏風や襖などにアップリケする。やっている事は今と殆ど差がない。時空を超えた、一種の文化衝突効果を狙っているというか、味わっていたのだろう。
 古代裂の持つ精緻な技術、草木染に見られる文様などの洗練された感覚や、その当時の制作者しか持ち得なかった人としての色つやが、その時々の「現代人」の心を魅惑するのだ。
 裂地は、色々なモノに作り変えられ利用されるという性格上、着物や帯といった原形のままで姿を残していくということがあまりないそうだ。したがって特に貴重な裂は、曲尺の一寸角を一坪として売買しているのだとか。
 土地感覚と言って良いのか、官製葉書大の商品商いまで可能ということなのだろう。なんだか「布地のダイアモンド」という言い回しが似合いそうだ。
 次に赴いたのが「今昔西村」さん。こちらも江戸時代から昭和初期頃迄の古い染織品全般(着物・帯・更紗・袱紗など)を扱っておられるが、「ちんぎれや」さんの様に小物が中心ではなく、時代衣裳から気軽に着れる着物や帯などが多い。
 特に店舗の奥にある大正時代のアンティーク着物や帯は素人目にもコンディションの良さが判る良いものが沢山揃っていた。
 妻はあれやこれやと店主さんに質問責めをしていたが、私はこういうモノは精度の高いスキャナで図柄や色合い・表面のマテリアルをデジタル化して、他のモノに流用すれば良いとぐらいしか思いつかない質なので、移り気ながらこの店の裏庭の見事さに見ほれていた。
 苔むした灯籠に手水、、主なものはこの二つだけなのだけれど、狭い空間でこれ程の、心癒される小宇宙が作り出せるのだ。伊達じゃない「京都」。
 まあこの「感覚」が「古代裂」の世界に通じているのだろうけれど。
 この日、縄手通の最後の訪問先は「てっさい堂」。引き戸を開けて店内に入った途端に細長い15坪程の敷地に堆く積まれた陶器の山に息苦しくなるほど。
 お目当てのデミタスカップサイズの豆伊万里が五千円前後で、、欲しい、、しかし、一つや二つ買っても、満たされるのはささやかな所有欲だけだし、第一、エスプレッソを入れる為には器としての厚みがない。
 取っ手がないのはご愛敬で済ませられるけれど、見栄とコーヒーカップとしての機能性は天秤にかけられない。

 第一、その辺りが「慧倉への道」の一番肝要な部分なのだ。

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2006年8月29日 (火)

美の壷・・日本は美しい

Kingyo01  『どこか遠くにではなく、遙か未来にでもなく、既に美しいモノはこの国にある。』

 世の中には「四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。」という言葉があるらしい。自分の感覚の中では、二十代の後半辺りから精神年齢が停止しているような感じがあるが、周囲との関わりで観察すると、やはりそれなりに「歳を経た人間」としての人間像があるようだ。
 老いていく事による、なんとも言えぬ喪失感や焦りは、加齢によるマイナス面だろうが、逆に良かったなと思えることも沢山ある。
 その内の一つに「日本の美や粋」を感覚的に「味わえる」ようになったことが上げられる。
 「日本の美」などと構えた途端に、すぐに神社仏閣や日本庭園・美術館などを思い浮かべてしまう権威主義的な「常識」が、かえってこの国の文化的な伝統を分断して来たのではないかと思っている。
 最近、何度目かの「さんまち」を中心とした飛騨高山観光に行って来たが、この町だけは人出が絶えることはないし、ここに訪れる人々の表情には単なる物見遊山からは生まれない満足感を見て取ることが出来る。
 それは観光客が、生活の中に取り込まれた日本古来のデザインセンスを、ある種の郷愁と新たな発見ともに、この町の空間に感じ取るからだろう。
 勿論、「さんまち」のような町は国内に沢山ある。そして日本の美や粋を内包しているものは、古民家が立ち並んだ「町」という空間に限らず、様々な伝統工芸品や骨董なども見つけ出せるだろう。自然と一体化したエコロジカルな生活が生み出した仕組みや形、さらに出しゃばりでない「面白味」を追求した「粋」の数々、、。
 親殺しや子殺しが、いとも簡単に行われるようになったこの国の、目指すべき文化と人の営みのモデルケースは、以外と身近にあるのではないか?そんな思いも一方にはある。
 さあこれから日本の美を味わい尽くそう。そしてそこに秘められた日本人の生死観の端くれを、見つけだしてみようと思う。

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写真は美濃・旧今井家

美の壷

 「根付け」・・江戸時代のもの、今で考えればケータイストラップ。四方三センチ内に収まる精緻で巧妙な細工、「手の平の中の小宇宙」ですか、巧いことを言う。まさに壷ですね。
 NHKもこういった番組をしっかり作っていけばいいのに、、、まあ見ない人もいるだろうからそれで一律に視聴料金を取れるとも言えないけど。

 やはりケーブルテレビのような営業形態にしないと無理かな、少なくとも親方日の丸だから「なんでもOK」なんて事はずーっと昔に崩壊してたのに、それに胡座かいてツケが回ってきてるのは確か。

 でもこういう番組が民放で出来るのかと言えばゼッタイに出来ないし、、、結論、今の内に楽しんでおきましょう。谷啓さんが良いですね。

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