2007年5月21日 (月)

アンティークミシン

Hi3900282  信楽のとあるアンティークショップで出会ったのがこの英国製ミシンである。
 古民家カフェの装飾用にと、和骨董巡りは、結構、こまめに廻っているつもりなのだが、西洋アンティークには腰が引けていたezouにすると、このミシンとの出逢い、かなり衝撃的なものだった。
 薄暗い西洋アンティークショップの床に置かれてあったミシンの装飾美とフォルム、、、初めて動物ショップで出会った子犬の目に惹かれて、その日の内に子犬を引き取ったあのときめきに、よく似ている(笑)。
 男の属性として、車・飛行機・鉄道・腕時計が大好きで、その大好きさの中には、それらの機能美に惹かれる部分が多いように思うのだが、まさにこのミシン、その壷を突いている存在なのである。
 しかもメタリックブラックの肌に描かれた黄金色の花模様をメインにした装飾が美しい。
 ショップの店長さんに聞くとアンティークミシンでは「シンガー」が有名なのだという。
 ezouが手に入れたのは、どうやらSINGER27(1902年製)と、猫足の収納テーブルが付いたフリスター&ロスマンらしい。
 らしいというのは、ezouにはこういったものに対する鑑定眼がまったくなく、ネットなどで見る写真でしかその内容が推し量れないからである。
 まあ偽物ではないだろう。 偽物のアンティークを作る為に、現在の流通パーツでこのミシンを組み上げて偽装するのも、古いものの部分品を寄せ集めて再構成するにしても、そちらの方がコスト的に随分高くつくに決まっているからである。
 その辺りが可動部分を持つ機械ものアンティークの面白いところだ。

Hi3900302  ここでシンガーミシンについての蘊蓄話。
 1851年、アイザック・メリット・シンガ-(アメリカ)が、第1号実用ミシンの特許を取ってから、1世紀半にわたりミシンを作り続けてきたシンガ-。
 旧世代の人間ならこのミシンブランドの名前を知らないものは少ないだろう。
 シンガーミシンの日本上陸は1900年。このミシンが日本に上陸した時には日本ではまだ和服が中心で、ミシンの販売には、かなり苦戦したようだ。
 そこで、洋裁学校を作り、洋服を流行らせ、洋裁ができる人を育成し即販売員に仕立てるという、なにやら現代の手法にも通じるような戦略が取られたそうだ。面白いねぇ。
 そのお陰でシンガーミシンの可憐な美しさと、丁寧に作られた一つ一つの部品が、日本中に出回ったわけなんだけど、それが今では『アンティーク』なんですね、、面白いものだ。

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2006年9月 5日 (火)

Pict0007  神戸大丸裏からフラワーロードに抜ける仲町筋(ルミナリエの道)を歩く。この道筋、空気のクリアな日に歩くと、日本じゃなくヨーロッパのオフィス街を歩いているような錯覚を覚える。
 今回は、いつも見逃している「神戸らんぷミュージアム」に入館した。

 勉強になったのは、時代劇に出てくる行燈など、一見ローテクに見えるものでも、その時代の中では高度な「技術」を駆使して作り上げたものだという事実。今の家電製品なんかで「当社の電気釜は、ここが違う!!」っていう例のノリですね。
 それと行燈やランプの時代の夜の暗さ。蛍の光で勉強したっていう歌がありますが、昔は、灯りを灯しても圧倒的に暗かったんですね。
 我々はテレビとか映画でしか過去に遡れないので、どうしても、昔も今みたいに夜が明るかったと錯覚を起こしてしまう。
 当時の「夜の明るさ」を映画なんかでリアルに表現したら、暗さに目が慣れていない現代人からすると、薄暗がりの中で人々がごにょごにょ動いてるようにしか見えないのだろう。
 電化による「灯り」が、ぼちぼちと日本に浸透し始めたのが大正時代辺りからなのだそうで、そこに日本人の匠感覚と西洋文明の本格的な融合が多く垣間見られるようである 

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 話は神戸から京都へとがらりと飛んで、中京区西木屋町三条下ルにある明治・大正・昭和の照明器具を扱う専門店タチバナ商会のご紹介。タチバナ商会のホームページを覗いていて、大変、興味深いテキストを見つけたのでここで引用させていただく。

 大正や昭和初期に作られた照明器具にはなぜこんなに人を惹きつける魅力があるのでしょう?当時は「電気」と言う言葉は照明器具だけに使われた言葉だったのです。
 TVもなければ冷蔵庫も洗濯機もない時代です。せいぜいニクロム線を利用したアイロンがあったくらい。
電気屋さん=照明屋さんだった時代です。  日本は鉱物資源をもたない国ですからヨーロッパのような派手な色使いのガラスは焼けませんでした。ガラスに色を発色させるには特殊鉱物が必要でそれらは主に輸入に頼っていました。当時それは相当高価だったのです。当時の職人は資源(材料)は無いなりにいろんな「デザイン」をとことん工夫しました。
真鍮という金属を持ち前の職人技で曲げたり削ったり、伝統文様をその中に取り入れたりと面白い形に工夫を凝らしました。
 和洋折衷という言葉が最盛期を迎えたのもこの時代です。
生活様式が洋風化する中でそれにピッタリあった照明器具を工夫したのです。
1つの建物の中に和室と洋室が混在してなおかつ雰囲気にあったおしゃれな照明を考え出しました。それだけに当時の照明職人の仕事への思い入れは相当だったのです。
また昔の日本人は「物やお金」を非常に大事にしました。
 家や家具や照明といったものは3代先まで使えるものを慎重に選んだ時代です。
現代の3「年」使い捨て発想の照明とはそこが根本的に違うわけです。
 だからこれだけ物のあふれる現代でも当時の照明を見ると抜群の美術センスに感動させられるのです。

 「三代先まで使える」と「三年使い捨て」の対置は見事で、ある意味、過去のデザインが今でも通用したり、場合によっては現代のデザインを上回る本質的な理由を巧く言い表していると思う。
 それに、内容的にはほぼ同程度の製品が、ブランドデザインを付加されているか否かで、恐ろしい程の価格格差があること、又、それを我々自身が受け入れ自らの首を絞めるような流通経済を消費者側から成立させている矛盾も感じさせられる。
 まあそんな理屈はさておき、タチバナ商会の店内にところ狭しと吊され置かれたアンティーク照明の数々、なかなかのものです。単に観賞用ではなく実際に使えるというところが感心させられる。
 実際、私、ezouはこの店で照明を一つ購入して、現在改装中の古民家にそれを取り付け、余りにも部屋に似合いすぎるそのデザインに惚れ込んでいる。

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2006年9月 3日 (日)

風の道と町屋

Banamini  大阪でもようやく真夏日を逃れた日が訪れてくれた。暦は9月。まあ当たり前と言えば当たり前だが、ここ数年「気象台始まって以来の」だとか「二番目の記録」だとかが連続してるので、普通に秋風が吹いたりするだけでもホッと胸を撫で下ろしたりする。
 このまま夏が終わらないのではないかと思わせるような気象の変調と、地球温暖化とがどう関係しているがのか浅学な自分にはなんとも言いようがないが、明らかに自分が子どもだった頃の「夏」と、今の「夏」とでは様子が違うのは確かだ。
 あるテレビ番組で「ヒートアイランド現象と風の道」についての特集があって、思わず考えさせられてしまった。 これは私たちにとって今後かなり切実な問題になっていくだろうと思う。

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 過日、京都経由で福井県の小浜に、妻と焼き鯖を買いに出かけたおり、妻はしきりに市内の旧家屋の前に立ち止まって「こんな家に住みたいなー」と埒のあかない愚痴をこぼしていた。
 「こんな家」とは、玄関の戸なり窓を開け放つと裏庭まで一直線に開け放たれた空間として繋がってしまう家のことだ。
 冬場はどうなのか想像も付かないのだけれど、夏は確かに風が通って涼しいだろうと思う。当然この構造だと家の中は通りから丸見えになるので、ステテコ姿のおじいさんがうろつき回っている姿や、子供達が扇風機に当たりながらテレビを見ている様子も手に取るように判ってしまう。
 つまり風が通ると共に、プライバシーも筒抜けになるわけだ。当然、安定した地域社会というか、それを可能にするコミュニティが必要になる。(たぶん一昔前はそれが当たり前の情景だったのだろうが)

 「ヒートアイランド現象と風の道」特集では、ドイツのシュトゥットガルト市の綿密な都市計画が紹介されていたが、日本では、そのような都市計画を立てる前に、隣人の生き死にさえも判らない密封生活自体の背景から考えていく必要がありそうだ。
 妻が憧れるような開放的な生活空間も悪くはないが、マンションの「ドア一枚で確保されるプライバシー」の元で生きて行く安楽さも捨てがたいというのが多くの現代人の本音ではないだろうか。

 で、ここで再登場して来るのが過去における都市型建築の「町屋」である。
 京から小浜に向かう鯖街道「京は遠ても十八里」の中継点となったのが「熊川宿」だ。
 小浜から京への若狭街道の約1.1キロメートルの両側に、平入と妻入の町家が混じって建ち並んだ旧宿場町。
 焼き鯖を購入した帰り、この地の町の佇まいと葛餅を美味しく堪能させて貰った。特に小川沿いにある町屋群は良くある表現で申し訳ないけれど、正に過去にタイムスリップした感覚になった。ただし町屋と言っても、「熊川宿」のものは「京の町屋」とは少し趣が違う。

 ここでもう一度「町屋」の意味を整理してくと
 
  町家とは、一般に町なかにある家、商家などを指す。主に都市の中心部や宿場町等で、高い密度で人々が住み、商業や手工業などの産業活動が営まれた地域に多く立地する。用途は主に商業(物販、飲食、宿泊等)や手工業が営まれた職住併用住宅が中心だが専用住宅である仕舞屋(しもたや)も含まれる。また、町家等には、まちなかに立地する武家屋敷、その跡地に立地した伝統的な様式の専用住宅等も含む。
 
  となり「京の町屋」は、「熊川宿」と比べて、より人口密度が高い都市型生活に適応した生活空間を作り出してきた形式と言えるだろう。
  実際少ない敷地面積で、夏は極端に暑く冬寒いという決して優しくない気候風土に適応し、尚かつプライバシーとコミュニティを両立させる工夫が「京の町屋」の中には幾つも見いだす事が出来る。
 現在、京都では町屋をそのまま使った飲食店や宿・商業用店舗が一種の「町屋ブーム」と呼んでよい程、増えつつあり、多くの観光客もそれを支持しているのだが、その要因は単に、「町屋」の格好良さや回顧趣味という事だけにあるのではないのだろう。でなければ「町屋暮らし」を求めてわざわざ京都に移転する人々など登場するわけがない。
 観光の町屋としての「熊川宿」と、住まいの空間として再発見された「京の町屋」の違いと言った所か。
 
 現代人は、冷暖房機器という便利な機械を手に入れ密閉性の高い生活空間でも快適に暮らせるようになったが、冷暖房機器の廃熱は「密閉空間」の外にどんどん蓄積され、結果的に都市全体を加熱してしまった。昔の木造建築は暑さを凌ぐために風通しを考え、それでも凌ぎきれない暑さを克服するために打ち水の習慣や風鈴を初めとする生活を演出するための様々な工夫を凝らしてきた。
 「昔は良かった」等という懐古的な話ではなく、我々はよりよい未来選択の為の考える材料や、文化的蓄積を過去に求めることが出来ると捉えることが重要なのだろう。

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