トマティージョ
古民家カフェの玄関裏にある蛙ランド(横長の坪庭なんですが)の手水石に、生き物を入れたくて、何度か試みて来たのですが、その度に挫折。
かろうじて、裏庭の防火用水井戸で野生化しためだかを移植したものが一匹、一冬を越したのみという実態です。
で、性懲りもなく尾の長いコメットを一匹入れてみました。
後ろ姿が、半熟トマトを割ったときのような赤身と、へたの白い部分が混じっているように見えるのが気に入っていて心密かに「トマティージョ」と名付けていました。
そうそう、トマティージョはメキシコの食材でグリーン・トマトのことですから、全身が赤く、尾鰭の付け根に三方に開いた白い筋を持つこのコメットとは、色味がまったく違いますが、「トマトみたいな一風変わった奴」と言うニュアンスの命名です。
と言うか、心の中でそう名付けていて人前で口に出す訳ではないのでまったく混乱はありません(笑)。
このトマテージョが、手水石に入れて一週間後の猛暑日に水面に浮かんで死んでいました。
入れてから先住民のめだかと仲良く連れ添って泳ぎ(と言うか、一方的にめだかの片思い)なんの過不足もなく元気に過ごしていたので、この死はかなりのショックでした。
一昨年度、我が家で家族同様に飼っていた高齢のラブラドールレトリーバーが息を引き取った時も、「そこにいるべきもの」が無に返る、あのなんとも言えないショックを味わいましたが、それに近い感覚でした。
「金魚」ごときでと思われるかも知れませんが、確かに自分の生活を振り返ってみるとこの死は「金魚ごとき」であり、本当に些細なことなのですが。
日々の様々な思いと重なった上での「だからこそ」の悲しみなのかも知れませんね。
とにかく、水という生活空間をこちらが勝手に動かした上での死だという部分がこたえます。
自分にとって生きていけない環境なら逃げ出してくれればいいのですが、金魚には無理な話。
梅雨入り前に、玄関を開け放していた時期があって、ツバメがしきりと入って来て「ツバメが巣を作る家は幸運が訪れる」みたいな言い伝えを思い出し、我が家もツバメにとって安心できる環境があるのかと悦に入っていたのですが、「飲食の空間」にツバメの巣は無理と判断して、泣く泣く戸を閉め切っていたら、場所を変えたようです。賢いですね。
生き物を飼う時の話だけではなく「状況を判断し状況を変える、それが無理なら自分が変わる」・・人間の間でも、相手と自分に、そういう能力があれば、トラブルは少なくてすむだろうと思います。でもまあこれは理想論ですね。
理想と現実の差の話ではないですが、先日、厨房のグリーストラップの掃除をしました。
厨房自体がまだ完全稼働している訳ではないので、それほど強烈な汚れもなく小一時間ほど作業でしたが、自分が調理したものの残骸が、こういうヘドロ状の姿になって突きつけられると「ものを作る」意味とか「食」の意味を改めて考えさせられます。
人が「清」と「濁」をその身体一つに合わせ持って生きているのは「食事と排泄」の関係を考えると非常にわかりやすいのですが、人はついつい「清」の方に意識を向けてしまいがちですね。
自分の中に「濁」があることを忘れてしまうか、伏せてしまう傾向がある。
調理などをしていても、半加工品などの食材を扱っていると「食」が、おそろしくスマートで完全無菌な世界に見えてしまうことがあります。
生きた魚とか、鶏をさばく所からやって、しかもその後始末を最後までやって、やっと本来の「食」の姿が見えてくる。
グリーストラップの清掃も勿論その「食」の一部ですが。
今、日本は「食料自給率」の課題で逃げられない所まで来てしまいましたが、国自体が巨大な「輸入」というコンビニから「食」を買い求め続けて来たスタンスを、振り返ってみる時期が来たのかも知れませんね。
今日は柄にもなく「考えて」しまった話でした。
そうそう、今日の話に出てきた駐車場兼裏庭にある防火用水井戸に植え込んだ蓮の花が咲こうとしています。
蓮の場合、花が豪華ですが、蕾も可憐というか、何か神秘的ですね。
古民家カフェのオープン時にはもう咲いていないでしょうから、咲きましたら画像だけでもこのブログにアップして置きたいと思います。
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